記憶というのは悲しいくらいに消えていく。時間とともに。(2000~2002)

ミレニアム騒動がひと段落した2000年の春。多くの同級生が大学卒業を迎えた。 一浪してたせいもあって、数人の友達はそれより一年早く社会に巣立っていったが、多くは一浪組。この年に卒業を迎えていた。

僕はというと97年の初夏に大学を中退してから、特に何か定職に就くわけでもなく、ぼんやりと地元のカラオケ屋でアルバイトを続けていた。友達が大学生の内はなんだか自分まで学生気分で「まぁいいや」と毎日を過ごした。昼過ぎに起きてワイドショーを見たりゲームをしたり。夕方になりカラオケ屋に。数時間働いて帰宅。常にお金は無く、「財布を気にせずファミレスで食べたい」というのが直近の目標だったり。そんな毎日。新入社員として散っていった友達はスーツを着て毎日働いていた。

4月。友達が僕の誕生日会を開いてくれた。会社帰りにスーツで登場する友達。なんか随分先に行ってしまったような焦燥感を感じた。 集まった友達の一人が「知り合いの会社でバイトを募集しているけど、やる?」と言ってきた。ミネラルウォーターの通販のコールセンターでデータを入力する仕事。僕にとって新鮮な二つのポイントがあった。一つ目は朝から夕方までという「普通」の勤務時間。二つ目は「会社」での仕事。この二つのポイントは大きく、その会社でアルバイトをすることに決めた。

朝早く起きて、満員の通勤電車に乗る。オフィスは千代田区。大した事ではないが、大きな事だった。みんなの末席についた感覚があった。仕事自体は注文内容をひたすら入力する事務作業、時間が空いたらシュレッダー。ただのアルバイトの域ではあったが、これまで味わった事のない充実感があった。お世話になったリーダーのKさんからは今も年賀状が届く。

しかし、一つ問題があった。このデータ入力のアルバイトは期間限定だったのだ。5月から7月末までの3ヶ月限定。「さて、この次どうしよう」特にアクションプランは無かった。そんな中、このアルバイトを紹介してくれた友達がまた声をかけてくれた。今度は自分が働いている会社に面接を受けてみないかという話だった。

真夏の日差しがアスファルトに照り返す暑い日。南青山のその会社を訪れた。 アパレル関連のその会社は30代の社長さんが起業した若い会社だった。社長はTシャツに短パンというラフな姿だったが、溢れる自信を感じた。「まだ若いのに凄いな」と恐縮した。

訪問という名の「面接」が始まった。一通り雑談をした後「君はこれからどうしたいの?」という質問がきた。漠然とした質問が一番答えにくい。僕は「とりあえず何かスキルを身につけていければと思う」とぼんやり答えた。一息ついて社長は「うーん。とりあえずというのは自分の中で明確な答えがないって事なんだよ。君の答えにはとりあえずが多い。そのあたりをクリアにしていくべきなのではないか」と。「なるほど」と発してそれ以上言葉は出なかった。何て言うか「完敗」だった。だけど得るものも大きかった気がする。

2000年8月。僕はカラオケ屋のバイトの後輩Yに連れられて新百合丘のとある会社を訪れた。Yはその会社で不定期のWEB担当として働いていた。しかしながら本業が忙しくなり、後任のWEB担当が必要となり僕に白羽の矢がたったのだ。
前年暮れから中古のMacでホームページを開設し、インターネットにはまっていたのだが、まだまだ個人サイトレベルしかスキルはなく、会社のWEB担当なんて無理な段階であったが、データ入力のアルバイトも終了してたので「とりあえず」やってみることにした。

自宅から電車を乗り継ぎ片道2時間。さらに交通費込みで11万円という待遇であったが、WEBの勉強にはなった。 その会社は本業は他にあり、副業で教育系のポータルサイトを運営していたのだが、僕が制作から運営まで広範囲に担当した。会社は僕の他に4人いたが、3人はHTMLがわからない。他の一人は大学生のプログラマーでなかなか優秀ではあったが、とにかく連絡がつかない。システム関連でトラブルが発生しても対応が遅れてしまうことも多々あった。現状はあくまで「副業」な状態だった。

新百合丘に通い始めて2年が経ったある日。会社はついにWEB事業の縮小を決めた。1年前くらいから「辞めたい」と伝えていたのだが、後任もいなくてずるずるきていたが、このタイミングで退職した。そして思った。「もうインターネット業界で働くのはやめよう」と。

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takanori 机の上に空き缶を置きっぱなしにしたり、机の周りに荷物をいっぱい置いていて注意される人。 詳しくはこちら