モザイクの断片を紡ぐ(1976~1992)

1976年4月、大田区の東邦医大で生まれた。帝王切開で未熟児で体重は2,200グラムしかなかった。

父親は自宅で小さな製造業の会社をやっていた。会社といっても父親と母親の2人しかいないのだけど。
大田区に有りがちな所謂「町工場」のような感じ。電球を作っていた。製造業がまだ日本経済を支えていた時代。裕福ではなかったが、貧しくもなかったのではないだろうか。僕が生まれた翌年妹が生まれた。こちらは僕と違って3,700グラムの大きな赤ちゃんだった。

保育園には3歳から通っていた。性格は大人しく控えめで、いつも教室で絵を描いていたり、園庭の隅っこで虫を探したりしていたそうだ。活発に走り回るということは記憶にない。家に帰ってきてからもチラシの裏に絵を描いて過ごした。唯一の晴れ舞台として記憶しているのは年長の時の学芸会で「白雪姫」をやった際に王子様役をやったことくらいだろうか。白雪姫役のコは今考えると「初恋」の人だった気がする。

小学校の低学年は「キャプテン翼」の影響もあってサッカーをよくしていた。サッカーでは闘争心旺盛でよくスライディングタックルを仕掛けていた。守備はあまり好まず、フォワード的な役目をやっていた。家では2年生のクリスマスに買ってもらったファミコンに熱中した。好きだったのは「ベースボール」や「サッカー」などのスポーツゲーム。ファミスタは毎年買っていた。

学校の勉強は比較的良くできた。90点以上は当たり前。80点台だとショックで、60点台を一度だけとった時は机の裏に隠した。先生の言う事も素直に聞いて、学級委員などにも毎年選ばれた。優等生だった。

バブル景気の頃、円高が進んでいた。ウチは主に輸出を生業にしてたので世間の景気に反して事業は苦しんでいた。

中学に入りソフトボール部に入部した。この地域ではソフトボールが盛んで、中学にも野球部は無かったがソフトボール部はあった。2年の時に全国大会に出場した。レギュラーは3年生だったが、2年生からも数人背番号をもらった。運良く直前の試合でヒットを打ってた事もあり、17番をもらった。無論全国大会では出場機会は無かったのだが・・・。3年生の時は7番ライトのレギュラーだった。新人戦で関東2位になったこともあり「今年も夏は全国行けるな」と思った。それが慢心につながりまさかの夏の大会では都大会決勝敗退となった。

学業の方は学年で1位を取るなどして引き続き良い方だった。家庭の事情などを考えて都立高校への進学が前提で、その中で学区で1位の日比谷を受ける事がほぼ決まっていた。よっぽどの事がない限り落ちないと言われていた。

部活も引退し、いよいよ受験モード突入。そんな頃、母親の体調が芳しくない日が続いた。日に日に症状は悪くなり、外が冬の装いを始めた頃には寝たきりに近い状態になってしまった。病院で検査をしたところ、とある病名を診断された。ベッドが空き次第入院する事になった。

これから発生するであろう母親の医療費、そして翌年に妹の受験も控えている事を考えて、安全策を取って日比谷の一つしたの三田を受験することにした。三田は元々女子高だった事もあってか柔らかい校風で自分に合っているように感じた。三田に入って東大でも狙うか。そんな風に思っていた。

1992年4月、三田高校に入学した。そして母親は僕が生まれたのと同じ東邦医大に入院した。

三田高校は制服があるが私服での通学が許可されている学校で、一般的には「自由」というイメージがあった。部活は入るつもりは無かったのだが、友達に誘われてバトミントン部に入る事になった。全くの初心者であった。あまりやる気もなく、2年生の時にダブルスでブロック大会ベスト8が最高の成績となった。学業は「余裕」と思っていたのだが、入学直後の学力テストで350人中340番という過去に経験したことのない成績を出し「世の中甘くない」事を痛感した。一学期の中間で160番台まで持っていったが、以後それ以上の成績を上げる事はなかった。

友達はすぐにできたが、放課後に遊んで帰ることはほとんどなかった。誘いもほとんど断った。たまに母親の病室に見舞いに行く以外はあまり家を出なかった。何となく気分が乗らないというか。

母親は何度も検査を受けて、見るからに衰弱していった。診断は何度も覆った。夏休み。母親の手術が決まった。丁度部活の合宿の最終日だった。合宿に行く前に持っていく物を買いに行った帰りに病室に立ち寄った。ベッドの上に買った物を並べて見せた。帰り際母親が病院の下まで見送ってくれた。「気をつけて(合宿に)行ってきなね」と言われた。僕も「手術頑張ってね」と返した。合宿は想像以上のキツさだった。OBのシゴキは辛かった。

合宿から帰るとすぐに着替えて自転車に乗った。そして病院に向かった。手術は難航し、予定の時間を大幅に過ぎていた。最終的に12時間以上の大手術だった。母親は胃を切除した。成功なのか失敗なのかよくわからない。一応今回の出術は成功だと言われたのだが・・・。術後の経過はあまりよくなく、数週間後に再出術となった。

8月23日。昼間お見舞いに行った。水以外飲めない状態だった。外は真夏の盛り。「スイカが食べたいな」と母が小さく呟いた。その夜様態が急変し緊急出術が行われた。そして朝方息を引き取った。48歳だった。

入院から4ヶ月半。あっという間の出来事だった。現実なのか夢なのか。全くわからなかった。窓の外には朝日が昇っていた。泣き崩れる父親と妹を前にして「冷静にならないと」と平静を装った。平静を装う事に意味などないのだが。

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takanori 机の上に空き缶を置きっぱなしにしたり、机の周りに荷物をいっぱい置いていて注意される人。 詳しくはこちら