彷徨う(1992~1999)

母親がいなくなって、家の中は荒んだ。心が荒んだ。精神的なバランスが崩れたのだ。特に妹は情緒不安定だった。それぞれが自分の事で精いっぱいな感じだった。

相当なショックを受けたが、時間の経過とともに悲しみは薄れていった。薄れていったのは悲しみだけではなく、母親の声や過ごした日々の記憶なども薄れていった。時間というものはとにかく冷淡で無機質だ。

高校2年になりアルバイトを始めた。友達に誘われて始めたオフィスの掃除のバイト。平日は毎日あったが、2時間の拘束時間しかなかったので、学校帰りの部活感覚で通った。また時給も破格の1,300円だったので、高校生にしてはわりと裕福だった。バイト帰りは決まってモスバーガーに立ち寄って他愛もない会話を楽しんだ。高校生になっていた妹にもこのアルバイトを紹介した。妹も同じバイトを始めた。

高校3年になって原付免許を取った。妹は既に単車を乗っていたのだが・・・。原付免許を取るきっかけは特にないのだが、この頃始めたベースを運んでスタジオに行くのに役に立った。本当はギターがよかったのだが、ベースがいなかったためにやむなくなった。9月の文化祭に向けてのバンド活動だったが、本格的なメンバーもいて、BOOWYなどのベタなコピーからRUN DMCバージョンの「Walk this way」なんかもやった。あとはレニークラビッツとか。最後まで僕のベースはあまり上達しなかったけど。

秋になり、ようやく受験勉強を始めた。2年の段階で世界史は相当レベルまできてたが、いかんせん英語が苦手で。しかも文系なので英語のウェイトが重く、得意の世界史、国語で点を稼いでも英語が足を引っ張るので偏差値は伸びなかった。
行きたかったのは家から近い明治学院(1,2年は遠いけど)。でも実は日大の芸術学部にも行きたかった。しかし結果は全滅。予想はしてたが、ちょっと痛かった。でも用意周到で春休みからの予備校の申し込みは既に済ませていた。

この頃、阪神大震災が起き、その後にサリン事件が起きた。なんだか波乱な冬だった。

予備校生になり、高校の友達は勉強に集中するようになった。友達のほとんどが浪人になったので、遊んでくれる人がいなくなった。しょうがないので地元をぶらぶらしてたら小中学の同級生がやはりふらふらしてた。僕達は毎日のように遊ぶようになり、夜になるとジョナサンでドリンクバーだけで朝になるまでくだらない話をした。

秋になり、友達との偏差値の差が顕著になっていった。このままじゃヤバイと少し勉強のピッチを上げた。ただ地元の友達の誘いにはだいたい乗っていた。この頃、妹から毎月5,000円の小遣いを貰っていた。妹はバイトを掛け持ちして裕福だったのだ(最近このツケを払わされているのだが)。

世界史と国語は早慶レベル、英語は・・・と依然として文系には厳しい状況だったが、なんとかかんとか大学に受かった。横浜の端っこにある関東学院。受験するまで聞いたこともなかった。ただ「○○学院」に多少の憧れがあったので受験した。あまりレベルは高くなかったが決めた。さすがに2浪はできない。

子供の頃から「大学までが義務教育」的な感覚を持っていた。別に親から「勉強しろ」とは言われなかった。まぁ言われる前に勉強してたのだが。自分で「優等生」のレッテルを過剰に貼っていたように思う。自分で自分を追い詰めていた。そんな気がする。子供の頃に想像してた大学には行けなかったが、ひとまずノルマは達成した。そんな感覚だった。

大学へは家から約1時間半かかった。金沢文庫の山の上にキャンパスはあった。心地よい風が吹いていた。毎日学校には行くが、授業には気分次第で出たり出なかったり。ラウンジで友達と話したり、芝生でサッカーや野球をしたり。とても楽しかった。サークルには所属しなかった。新歓コンパには出てみたがノリが合わなくてやめた。チャラチャラしたノリが嫌いというか、先輩ヅラした人がいる事が嫌だった。そのかわり大学のメンバーとサッカーサークルを作ったり、高校の同級生とインカレを結成して、渋谷で50~60人くらいの飲み会を開いたりした。僕は当時仲間内でただ一人PHSを持っていた。

そして長い夏休み。昼過ぎまで寝て、起きてみると父親に「ここに座れ」と神妙な顔つきで呼ばれた。何かわからないかったが、ただごとでないことを一瞬で悟った。

突然「ウチの会社は倒産した」そう切り出された。そして「このお金でしばらく暮らしてくれ。俺はしばらく姿を消す。」と言い、10万円を手渡された。「え、どういうこと」と聞き返すのが精いっぱいだった。簡単に言うと知人の手形の裏書きをしたが知人が姿をくらました、という「ナニワ金融道」的な展開。そうなるとこの先推測される展開は・・・うわーっ。そして父親は姿を消した。

夏休みなので基本的に家にいるわけで、その日中ひっきりなしにかかってくる電話にビクビクしながら過ごした。電話ノイローゼになった。10日程過ぎても父親は「姿を消した」ままだった。さすがにいろいろな事が頭をよぎり警察に相談してみた。しかし警察はこれくらいでは動かないのだ。数日後父親は戻ってきた。戻ってきた事以外状況は全く変わらないのだが。

すぐに春休みがやってきた。大学生は休みが多い。春休みは学費を稼ぐ事にした。親からは期待できないし、奨学金は基準に満たず断念した。みんなが成人式に参加している時、僕は警備員のアルバイトの面接に行った。

レインボーブリッジの下の芝浦埠頭のとあるゲートの常駐警備員となった。24時間勤務(8時間は休憩だけど)だったので、特に夜の寒さはこたえた。真冬の海沿いは想像以上の寒さだ。深夜海を眺めながら「この先どうなるんだろう」と思った。春の暖かさがやってきた3月末でひとまず警備員のバイトは終了した。2ヶ月で半期分の学費を稼いだ。しかし何だか虚しかった。2ヶ月フルで働いて全て学費に消えるかと思うと無性に虚しさがおそってきた。何のために働いて、何のために大学に行くのか。正直わからなかった。僕は大学を中退することにした。稼いだお金で大学生活を満喫しよう。そして辞めよう。2年生の前期は遊んだ。バイトもせずに。6月25日、学生課に退学届を提出し、学生証を返還した。実にあっさりとした手続きだった。

97年冬、自宅を手放した。そして同じ区域の借家に引っ越した。98、99年の記憶はあまりない。無駄な時間を過ごしたはずだ。ただ唯一有益だった出来事といえばインターネットに出会えた事くらいだろうか。

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takanori 机の上に空き缶を置きっぱなしにしたり、机の周りに荷物をいっぱい置いていて注意される人。 詳しくはこちら