混沌とした水もやがて時間が経てば澄んでくるものだ(2004~2005)

WEB制作事業をもう少し拡大するために人を新たに雇う事にした。すぐに3人の若者が決まった。3人増えると事務所は手狭なので、同じ千川通り沿いの少し大きなビルに移転した。自動車工場の上の事務所は引き続きサーバ置き場として契約した。

移転先の但馬ビルは今までと比べて格段に広く、詰めれば20人くらい入るスペースがあった。 デザイナー見習い的な3人の若者もやってきて6人+1人の新体制がスタートした。しかし、3人の若者はすぐに辞めていった。僕も感じたスキルの差だ。スキルもあまり高くなく、かつ向上心も正直あまりなかった。そして僕達もマネジメントが未熟だったのかもしれない。
せっかく大きくしたオフィスだったが、また元の人数になってしまった。オフィスはガラーンとしてた。

その頃、主にYとpodが「忍者ツールズ」を担当し、僕はひたすら制作案件をこなしていた。たまにカウンターのドット絵を制作したりはしたけど、基本的にあまり「忍者」にはタッチしなかった。サービスのカラーがY色だったので手出しするのが難しかったのだ。制作案件は小さなものが多かったが、とにかく数をこなした。3日で納品とかそういうのばっか。何かむなしさも感じていた。

「忍者ツールズ」は堅調に会員数を伸ばしていった。paperboy&co.さんからお話を頂き一緒にエイプリルフール企画をやったりもした。僕達の生活は基本的に変わらず、13時に出社して1時に帰る。Sはこの頃、あまり忍者システムズには顔を出さず、月末になると広告配信関係でメールを取り交わす。そんな距離感だった。podはもくもくと作業し、Yは趣味のように忍者ツールズのリニューアルをしていた。

夏の日。大きな動きがあった。Sが経営するハニワシステムと僕達の忍者システムズが合併することになった。
約一ヶ月に渡って繰り広げられたメール。そしてMTG。答えはシンプルなのに拗れた。ギスギスした一ヶ月だった。立場的に3人の中間にいた僕はとても難しい状況にいた。最終的には誰もが歩み寄って決着した。答えは最初から決まっていたのだ。誰もがベストの形は知っていたのだ。ハニワが忍者を吸収する形で落ち着いた。そして社名を「有限会社サムライファクトリー」と決めた。

「サムライ」というのは決まっていた。日本から世界に発信していきたいという理念は共通だった。世界において「日本」というのがわかりやすい方がいい。そういった経緯から「サムライ」が決まった。問題はサムライの後。ホワイトボードにいくつもの候補を並べて選んだのが「ファクトリー」だった。サービスを創り出す。人も創り出す。そして幸せも創り出す。そうしてサムライファクトリーは始まった。

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takanori 机の上に空き缶を置きっぱなしにしたり、机の周りに荷物をいっぱい置いていて注意される人。 詳しくはこちら