「会社」になった頃(2005~2006)

この時からSの事を「社長」と呼ぶ事にした。podもYも。今までの馴れ合いではなく、会社としてこのサムライファクトリーを育てていこう。そう思った。最初は凄く戸惑ったけど、次第に慣れていった。そして次に人員の増強を行った。

ユーザーサポートのアルバイトとして大学生のクミさん、そしてプログラマー2名。そのうちの一人がmizneyである。
mizneyの面接にはエピソードがある。面接は週末にSが一人で行った。当時お客様には缶コーヒーを出すようにしてたのだが、Sが出した缶コーヒーをmizneyはほとんど飲まず、面接が終わってSが缶を持った時、最初とほぼ同じ重さを感じた。「せっかく出したのに、飲まなかった。」とSが缶の中をのぞくとコーヒーが凍って飲めない状態だった。冷蔵庫に長い時間入れてたので凍ってしまっていたのだ。後日談としてmizneyは「喉が渇いていて飲みたかったが、凍ってたので飲めなかった。嫌がらせかと思った。」と笑って言った。mizneyは早速力を発揮し、ほとんど一人で「忍者ブログ」を作り上げた。

年が明けて2006年春。万蔵を含めた何人かが入社した。そして創業以来のコアメンバーだったYが一身上の都合で会社を辞めた。新戦力はまだまだ未熟な面もあり、Yの離脱は会社にとって大きかった。しかしながらしょうがない事なので残りのメンバーで頑張った。僕は制作面と運営面を担った。入金確認などもやっていた。

この頃、初めての研修に行った。京都、伊賀。忍者の文化をこの目で見るために選んだ。旅館は京都だったが、割と高級感のある宿で正直「まだ僕達には品位が足りない」と感じた。伊賀の忍者屋敷などを見学し、そこで得たアイデアをオフィス内装やサービスに活かした。翌年から研修は海外になったが基本的な考えは変わらない。その土地の文化、風土、国民性など実際に自分達の眼で見、空気を触れる事にどれだけ価値があるか。私たちはそこに大きな価値があると考えて研修を実施してきた。百聞は一見にしかず。

5月、これまで有限会社として経営してたのだが、期も変わったので株式会社にした。資本金も625万円から一気に6,000万円にした。全て自己資本。このタイミングで僕は取締役に就任した。

初夏のある日。取引先の某社の方が「サムライファクトリーで働きたい」と言ってきた。よっくもっくである。よっくもっくと同僚2,3人が面接を受けにきた。社内で意見は割れた。当時10人もいなかったサムライファクトリー、しかも全員クリエイター。そこに営業色の強い人が数人一気に入ってくる。当時の僕達にはなかなか想像できないものであった。しかし、最終的に入社することになった。会社を大きくするためには色んな職種の人間が必要だと思った。P氏とnoichiがサムライファクトリーの一員になった。よっくもっくは引き継ぎ等で入社が年末にずれ込んだ。

その後も立て続けにメンバーが増えていったので、オフィスが手狭になった。但馬ビルに移転して2年が経っていた。練馬にこだわりもあったので、練馬で物件を探した。一つ良さそうな物件があったのだが、審査で落ちた。財務上では全く問題がないと思っていたのだが、僕達の業種、年齢、外見などで落とされたのではないかと推測した。世の中は結構そういうので判断する。
練馬を諦めた後、六本木の骨董通り沿いのお洒落なビルに決まりかけたが、最終的に蹴り、池袋の第三共立ビルに決まった。池袋の北口という微妙な立地ではあったが、練馬からも近く、賃料も安いので決めた。何よりSにとって池袋はバンド活動してた当時のメイングランドであった。他の街より思い入れがあったのだ。

移転と同時にもう一つ会社にとって新しい展開があった。子会社の設立である。

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takanori 机の上に空き缶を置きっぱなしにしたり、机の周りに荷物をいっぱい置いていて注意される人。 詳しくはこちら