上手くいかない時はどんなことしても上手くいかないもんだ(2007~2008)

podに誘われて合宿に行くことになった。凄く抵抗したのだが、やむなく行くことに。伊東の旅館に泊りこみで予算を決めたりした。
矢継ぎ早に「忍者アンケート」や「忍者ベータ」を作って勢いを出した。とにかく「動き」を世の中に示したかった。WEBサービスは勢いの部分も大きい。出さなきゃ始まらないし、作らないと出せない。

ポイントや「助太刀忍者」を始めたのもこの頃。サービス開発は勿論、運営の重要性を感じていた。

春になり海外研修に出かけた。ラスベガス。エンターテイメントの本場であり、グランドキャニオンなどを見る事によって思考の壁を取り払いたいという目的で出かけた。実は僕、初めての海外だったのです。
全社で4チームに分け、別々の日程で行った。予定は滞りなく進んだのだが、帰りに事件が待っていた。サンフランシスコで乗り継ぎに失敗したのだ。ネバダからサンフランシスコの飛行機が悪天候で遅れてしまい、成田行が飛び立ってしまった。僕達は航空会社が用意した空港近くのホテルに一泊した。凄くローカルな感じのホテルでラスベガスよりある意味いろんな事を考える事ができたかもしれない。

成田につくと携帯の着信がいっぱいあった。会社からだった。なんかただごとでない雰囲気だったので成田から会社に直行した。
事業の進め方において他の人達と多少相違があった。そのあたりを端に発してネガティブな感じになっていた。
僕としてはサービスが大きくなってきたからには運営面を強化して多少コンサバティブにいくべきだと考えていた。しかし会社としては僕にスピードを期待していたのかもしれない。確かにわかる。どちらが大事という話ではないのだ。どちらも大事なのだ。ただ当時僕は片方を遂行するには片方は犠牲になっても仕方ないと考えていた。どちらにプライオリティを置くかが多少違っただけだったのかもしれない。結局ユーザーサポート、運営などを行う小さな部署を作り、そこをみることになった。その後、徐々に勢力(?)を拡大し、経営企画室を立ち上げた。事業計画書を作るためにパワポを購入した。

いろいろあって11月くらいから再びComsortに所属していた。定期的にいろいろあるのが僕。Comsort制作案件や事業計画などを作った。毎日遅くまで会社にいた。心身ともにタフな期間だった気がする。2007年は全然地に足着いてなかった。年が明けて今度は管理部に移った。正直ここまでくると何でもやれる気がした(笑)。

新しくサムライファクトリーに加わったJRさん率いる管理部では契約書の見直しを行った。これまで比較的杜撰な管理だった契約関連をチェックした。やっぱり杜撰だった・・・。その他、業界の情報を整理したりと比較的今に近い業務を行った。別業種からきたJRさんにサムライを取り巻く環境などを説明したり。

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takanori 机の上に空き缶を置きっぱなしにしたり、机の周りに荷物をいっぱい置いていて注意される人。 詳しくはこちら